ポップ

「対決―巨匠たちの日本美術」展の招待券を頂いたので、折角観に行くなら勉強してから行こうと思い立つ。
・アートコレクター 6月号「ジャパニーズ・ポップ」
・アートトップ 5月号「地獄絵巡礼」
・歌麿はポップで、写楽は反ポップ
・ポップを装った反ポップ(蕭白、会田誠)
・キッチュ系ポップとされている若冲は実はポップではない…等々
私の好きな芳年はキッチュ系ポップかなー?
私はカイカイキキが売り出しているオタクアートに抵抗があって、これでいいのかニッポン…と感じていました。が、山下さんの解説を読んで考えが一転。眼鏡の度を合わせてもらったような感覚!
これからは気楽に日本美術を楽しめそう。
キッチュやポップなんてー考えは、ネタを巡るネット言説と同じで、「ネタをネタとして…」というところに問題があると思うわけですよ。
それを間に受ける輩が出てくるわ、意識的に装う香具師がでてくるわ、果てはキッチュを擁護するために「キャンプ」と言い換えてみたりでてんやわんや。
個人的には、アート概念(前衛⇔後衛)の耐久実験としてのレディメイドまでで風呂敷をたたむべきだったかなと思ったり。
もっとアートって明るくて(分かり易さではなく)いいんじゃないかと思ったりするんですが、どうでせうか( ´w`)ノ
とりあえず答えてみます。
アートという膨大な流れは、私にとってとても捉えがたく、途方もない生き物です。キッチュやポップという分類記号は「お近づき手段」であって、本性を見抜くものではありません。よね?
その手段(仮の目)を借りてアートに親しんではいけないのでしょうか…?
もう一つは
前衛(概念の開拓によって生み出されたもの)
後衛(美しいもの、普遍的なもの)
に分類するってことですか?
補足説明よろしくお願いします。
そうそう。だからこそモノの表面的な記号に戯れてる感じ。
それを別に否定しないんだけれども、後衛は「アヴァンギャルド(前衛)」に対するアンチとして提示されてきた経緯があるわけですよ。
確かにデュシャンのレディメイドなんかは、アウラがない「既製品」でもアートになるってことを実験してみせて、実際それはアートになったと。
だけれども、それ以降の「記号に戯れてれば、核がなくとも認められていいじゃないか」という、アートに対するポジティブなキッチュ(悪趣味)が個人的にいけすかないわけです。
なぜなら、それは往々にして「あえて」やってるから。
「あえてやってるのに何で分からないの?」とか「何々だから、あえてやっている」とか、そういうネタを共有している人間だけで消費する姿勢は、アートの領域を狭めて、その狭い領域で満ち足りてしまってると思うわけですな。
そもそも、こういうやり取りさえも、このネタを理解してない人をのけ者にしてる。
そういうキッチュやポップなんてどうでもいい、仮の目を持たない人に、アートはどう働きかければいいか、そのために現代アートの価値から「あえて」を据え置いて、アートはもっと明るくなるべきじゃないかと考えてみたわけですぜ。
興味深いご指摘ですね。
私は百識さんとは違って、アート(特に現代美術)というものはついてこれる人間だけついてくればいい。と考えています。摂取しなければ死ぬというものでもありませんし。
私がアートを楽しむのは、常に新しい(未知なる)発想に触れていたいからです。
既存の技術を丁寧に、高度に積み上げるのことも大切ですが、新しい切り口、視点には興奮があります。
それは見たことも聴いたこともない、自分にない要素だからです。誰かが知っていて、自分が知らないのはむずむずしませんか?
百識さんが映画や音楽の知識に長けているのも、そういった欲求があったからだと思います。
美しいものは限られているけれど、新しいものは無限に生まれてくる。
私も新しいものを作れるかもしれない、発見できるかもしれないと常々考えています。
アートは制作に不可欠な刺激物です。
それを間に受ける輩が出てくるわ、意識的に装う香具師がでてくるわ、果てはキッチュを擁護するために「キャンプ」と言い換えてみたりでてんやわんや。
個人的には、アート概念(前衛⇔後衛)の耐久実験としてのレディメイドまでで風呂敷をたたむべきだったかなと思ったり。
もっとアートって明るくて(分かり易さではなく)いいんじゃないかと思ったりするんですが、どうでせうか( ´w`)ノ
2008年07月05日 百識 URL 編集
やや。むつかしくてようわからんのですが(●д×;とりあえず答えてみます。
アートという膨大な流れは、私にとってとても捉えがたく、途方もない生き物です。キッチュやポップという分類記号は「お近づき手段」であって、本性を見抜くものではありません。よね?
その手段(仮の目)を借りてアートに親しんではいけないのでしょうか…?
もう一つは
前衛(概念の開拓によって生み出されたもの)
後衛(美しいもの、普遍的なもの)
に分類するってことですか?
補足説明よろしくお願いします。
2008年07月06日 十和田 URL 編集
≫キッチュやポップという分類記号は「お近づき手段」であって、本性を見抜くものではありませんそうそう。だからこそモノの表面的な記号に戯れてる感じ。
それを別に否定しないんだけれども、後衛は「アヴァンギャルド(前衛)」に対するアンチとして提示されてきた経緯があるわけですよ。
確かにデュシャンのレディメイドなんかは、アウラがない「既製品」でもアートになるってことを実験してみせて、実際それはアートになったと。
だけれども、それ以降の「記号に戯れてれば、核がなくとも認められていいじゃないか」という、アートに対するポジティブなキッチュ(悪趣味)が個人的にいけすかないわけです。
なぜなら、それは往々にして「あえて」やってるから。
「あえてやってるのに何で分からないの?」とか「何々だから、あえてやっている」とか、そういうネタを共有している人間だけで消費する姿勢は、アートの領域を狭めて、その狭い領域で満ち足りてしまってると思うわけですな。
そもそも、こういうやり取りさえも、このネタを理解してない人をのけ者にしてる。
そういうキッチュやポップなんてどうでもいい、仮の目を持たない人に、アートはどう働きかければいいか、そのために現代アートの価値から「あえて」を据え置いて、アートはもっと明るくなるべきじゃないかと考えてみたわけですぜ。
2008年07月07日 百識 URL 編集
なるほど。今度はわかりました。興味深いご指摘ですね。
私は百識さんとは違って、アート(特に現代美術)というものはついてこれる人間だけついてくればいい。と考えています。摂取しなければ死ぬというものでもありませんし。
私がアートを楽しむのは、常に新しい(未知なる)発想に触れていたいからです。
既存の技術を丁寧に、高度に積み上げるのことも大切ですが、新しい切り口、視点には興奮があります。
それは見たことも聴いたこともない、自分にない要素だからです。誰かが知っていて、自分が知らないのはむずむずしませんか?
百識さんが映画や音楽の知識に長けているのも、そういった欲求があったからだと思います。
美しいものは限られているけれど、新しいものは無限に生まれてくる。
私も新しいものを作れるかもしれない、発見できるかもしれないと常々考えています。
アートは制作に不可欠な刺激物です。
2008年07月09日 十和田 URL 編集

