舞台

SAMOROST2.png
チェコの制作会社が作ったフラッシュゲーム:SAMOROST
舞台装置として使われている動植物がうつくしーです。
限られた空間のなかに世界が広がっている…
日本の盆栽の概念にも通じるような。

バロックの日本バロックの日本
(2004/01)
守安 敏久

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月岡芳年、寺山修司、横尾忠則を結びつけるキーワード。それがバロックであるという。

・装飾的な外観をその実質よりも優位に置こうとするのはバロックの特徴であり、形態と動勢に腐心すればするほど、内面だの心理だの情緒だのは置き去りにされる。

・幾つかの相反する意思(光と影、動と静、生と死、現実と虚構…)がある一つの動作に結集された場合、それから生ずる形式は常にバロックのカテゴリーに属する。バロックの精神=自分が何をしたいのか判らない。それは正と反とを同時に求める。

前者を芳年に、後者をテラヤマに当てはめるとわかりやすい。
テラヤマの作品には様々なモチーフが登場する。観覧者はモチーフ上を行き交い、幕が下りても着地することができない。正と反とが混在してる=結論付けることができないからだ。

この本で『自分の好きなもの』、『得体の知れないもの』について、少し分類することができた。
歌舞伎や京劇に見られる過剰装飾もバロック…なのか!
ゲージツはバロツクだ。

2008年06月25日 一品 トラックバック(0) コメント(2)

歌舞伎や京劇のケレン味がバロックなのかはさておき、寺山の場合、幾つかの相反する意思としての「現実」と「虚構」に並置して、「舞台」と「観客席」は意識してただろね。


寺山が腐心したのは観客を劇に巻き込むことだったし、それはビデオ作品においてより顕著だったと思う。


そう考えていくと『ある一つの動作』ってのはすごく示唆的で、例えば

「演者が舞台上から観客の方に向かって呼びかける」
→「実はそれはスクリーン上のことであって、観客はそれを見ている」
→「しかしその双方は映画内のことであって、本当の観客は私である」

という、寺山ビデオ劇の構図を考えたとき、『それから生ずる形式』というのは「フレーム」という映画の文法なわけですよ。


ざっくりいえば、『正と反とを同時に求める』ためにはその双方を透徹できる「距離」が必要なわけであって、寺山のビデオ劇の場合、スクリーン(あるいはブラウン管)で、主体と客体を分断することで「距離」を演出していたと。


だけれども、事実上映画内で主体(演者)と客体(観客)の関係は完結してしまってもいるわけで。それらを見ている「私」自体は主体にも客体にもなれずに、つまはじきになっている。


『幕が下りても着地することができない』のは、劇に関与することができないからで、主体と客体になりえず判断できる立場にないから『結論付けることができない』


つまり、本当の「観客」をできる限り劇から遠ざけて傍観者にさせるのがバロックの精神だと思うのれす( ´w`)ノ

2008年06月25日 百識 URL 編集

丁寧な解説ありがとうございます。

テラヤマの作品は、十和田の中でずっと消化不良を起こしていました。
ヴィジュアルイメージがあまりにも素敵なもので…白塗りの面々、巡業サーカスの一団etc
点在するモチーフ(から想像されるイメージ像)を辿っているうちに、物語が終わってしまう。
→道順がわからない(結論付けることができない)
というのが素直な感想だったです。

テラヤマさんは意図して、観客を置いてけぼりにしたんですね!なんて意地悪…追いつけないわけです。

2008年06月26日 十和田 URL 編集












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